第14回

1998年6月25日(木曜日)はコンゴ民主共和国(旧ザイール)

目次

国のあらましと地図
自然/歴史/1996年秋〜97年5月
産業・経済
この人にとってのコンゴ民主共和国[コンラッド]
1ページの旅『アフリカ音楽探検記』
いろいろ情報

独立−1960年
国名−コンゴ民主共和国
(旧ザイール共和国)
面積−
235万平方キロメートル

人口−4390万人(1995)
首都−キンシャサ
(人口466万人−94

住民−バントゥー系、スーダン系、ナイル系、ハム系、ピグミー
言語−フランス語(公用語)、
コンゴ語、スワヒリ語、ランガラ語など

宗教−キリスト教(カトリック・プロテスタント)、伝統宗教、イスラム教、キンバンギズム(メシア的宗教運動)

自然

コンゴ盆地の大部分を占めます。その底を中心として熱帯雨林が広がり、外側はサバンナになっています。
東のアフリカ大地溝帯にある国立公園には、数は少なくなってきましたが、ゴリラなどさまざまな動物が住んでいます。

歴史

14世紀にコンゴ王国が成立。その後にやってきたポルトガル人たちと平和に交流していたのが、奴隷貿易が本格的になって変わります。

1878年からベルギー国王レオポルド2世が派遣した探険家、スタンリーが首長たちと約400の保護条約。
84−85年、アフリカを分割するベルリン会議で植民地化。国王の私領となりましたが、暴政を理由に、1908年からはベルギー政府が統治。

1960年、独立。直後にコンゴ動乱が起こりました。カタンガ(現シャバ)州が分離独立宣言をし、ベルギーの軍事介入、国連軍の派遣されました。
65年、モブツがクーデターで政権をとります。
71年、コンゴ川をザイール川と改め、国名も変更。総合的に脱植民地化をめざすザイール化政策をとります。
その後、経済の面では後退します。

90年、複数政党制への移行が発表されます。
野党勢力は殊勝にチセケディ氏を選出しましたが、モブツ大統領は解任を宣言。
93年に大統領がビリンドワを首相に指名して、2重権力状態になりました。
94年、ケンゴ内閣が成立して収拾。夏、ルワンダ内戦により140万人の難民流入。

96年9月から東部でツチ系武装勢力と政府軍が交戦。
97年5月、「コンゴーザイール解放民主勢力連合(ADFL)」が政権を奪取し、カビラ議長が大統領に。
国名を変更。
9月、モブツ前大統領がモロッコで死去。

産業・経済

農業は自給作物が主。キャッサバは世界3位です。

アフリカ最大の鉱物資源国。
ダイヤモンドはオーストラリアについで世界2位。コバルトは3位。
銅の埋蔵量は5位(1995)。銅輸出国機構の中心的存在です。

右は首都キンシャサの町並み

この人にとってのコンゴ民主共和国
イギリスの作家[ジョーゼフ・コンラッド]

本名はテオドール・ヨセフ・コンラード・ナレツ・コルジニオウスキー。
1857年、ロシア領になっていたポーランドに生まれました。
62年、父親が独立運動に参加したために流刑となり、5歳の彼は、両親とともにロシア北部に強制移住。
69年、孤児になります。

74年、フランス船の船員に。
78年、イギリス船に乗り込みます。
86年、イギリス国籍を取ります。

90年、パリにあったコンゴ河汽船の船長になります。
その年、重病だった奥地の代理人を引き取るため、遠征隊とともにスタンリー・フォールズまで遡行。

94年まで、海上で生活。
95年、処女作を出版。
99年、コンゴでの体験をもとに『闇の奥』を書きます。

「この体験は、事実コンラッドの生涯にとってもっとも重要なモーメントだったらしい。
ある人に送った手紙の一節に『コンゴに行くまでの僕は、単に一匹の動物にしかすぎなかった』
と書いているそうだが、事実はじめてみるアフリカ奥地の人生−極度の寂寥と孤独がもたらす人間性の荒廃、またあくなき白人の搾取振り、そうしたものの実相は、はじめて彼に人間性の深淵について考える機会を与えた。

中野好夫訳『闇の奥』(岩波文庫)あとがき より

1ページの旅
のなか悟空 著『アフリカ音楽探検記−民族と大地の野生セッション
情報センター出版局・1990年

キサンガニからキンシャサまで何で行くかだが、陸路が寸断されているため、一般的にはザイール川を下る客船を利用するしかないらし。
宿の人に聞いても客船は月に二度ほどしか来ないらしいし、その日程も定かではないが、
「MAYBE TOMORROW」だと言う。船会社のオフィスに尋ねても返事は同じだった。
雨の量が多ければ水量が増えて船も早く来れるが、雨が降らなければいつになるかわからないらしい。

いつ来るかわからない客船を待っているわけにもいかない。
散歩かたがたザイール川の船着き場へ、直接自分の目で確かめに行ってみた。
そこには汚いペイントの小型貨物船が数隻停泊して、何やら荷物の積み下ろしをしていた。
客船が来ない場合は、この船の中のいずれか、キンシャサに向けて発つのをヒッチハイク(船の場合は何と言うか知らないが)して行くしかないのだ。

そうやって何度か船の様子を見に行っての帰りだった。どこからともなく感性をくすぐる音楽が聞えてきた。
フラフラとその音をたどっていくと、どうやら古い建物の中で音がしているようである。
開け放たれた窓からそっと中をうかがうと、ハハァー、キリスト教の少数派教会だナ、と納得した。・・・

他人が勝手に異宗派に土足で踏み込むことは謹まなければならない。
帽子をとると、失礼にあたらない程度に、窓越しからボンゴと歌を聴かせてもらった。
するとこちらに気づいた教会関係者から手招きされて、中に入るように言われた。
誘い込まれるように中に入ると、ボンゴを中心に四角い形で机とイスが並べられてあった。
私は一礼をすると、その中のひとつに座った。

再びその賛美歌が始まったとき、オイラは雷(いかずち)に打ち倒された大木のように、身体が真っ二つに裂けてブッ倒されてしまいそうだった。その表面を黒く焼いて網のような模様を入れただけのボンゴから発するギトギトにエネルギッシュなリズムが、大きくオイラの頭上にのしかかってきたのだ。

「おお! 見たぞ! BLACK MUSIC≠フ源流を!」
SOULもR&BもBLUESもJAZZも、この大樹の枝葉にすぎなかったのか−。
ボンゴのリズムと歌、そしてそれに合わせて各々がステップを踏みながら手拍子を叩く。
日本のようにスリスリの手拍子ではない。タイトでシンコペーションに満ちた、チョッパーベースのようなアドリブの手拍子である。

その強烈なリズムは、徐々に悪霊のように人々の肉体にとり憑くと、身体を揺すりステップを踏む動作はさらに激しくなってゆく。オイラはこの熱いリズムの渦の中で、尻尾を巻いて逃げ出してしまおうかとも思った。・・・

集会が終わったのは12時過ぎ、私は両手を合わせて静かに退出した。
2時間ちょっとの間、私は彼らの演ずるアフリカン・ミュージックの暴風雨の中に素っ裸の身体をさらしていた。
その残響も醒めやらぬまま、ポツリポツリと歩いた。
ザイール川の岸辺に腰を下ろす。その水面には無数の浮草が、ゆったりと大西洋に向かって流れていた。
オイラは無意識のうちに溜息をついた。
「迷刀悟空か・・・・・・」
オイラの神であったキリストは、ここでオイラの傲慢を奈落の底につき落とした。

著者は1951年、大分生まれ。フリー・ジャズを実践するドラマー。
ナイロビ−キリマンジャロ−マサイの村−ウガンダ を訪れた後に、旧ザイール(現コンゴ民主共和国)へ。
引用した前の章には、狩猟採集民族ピグミーの住むイツーリの森で体験した「天界音楽」がつづられています。

主な参考資料
『アフリカを知る事典』(平凡社)『データ オブ ワールド 1998年版』(二宮書店)

いろいろ情報

○B,B.モフラン&BITASIKAなどが出演する「アフリカン・ライブ KATIKA show」が8月14日、北とぴあで開催されます。チケットぴあで取り扱っています。

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