第10回

1998年4月23日(木曜日)はギニア

目次

国のあらましと地図
自然/歴史/産業・経済
ボーキサイトの生産工程
教育
<この人>セク・トゥーレと
カンテ・マンフィーラ
いろいろ情報

独立−1958年
国名−ギニア共和国
面積−25万平方キロメートル

人口−670万人(1995)
首都−コナクリ(人口95万人−95

住民−フルベ、マリンケ、スス
言語−フランス語(公用語)、フルベ語、マリンケ語、スス語

宗教−イスラム教、キリスト教、伝統宗教

自然

年間の降水量が3000mmにもなる熱帯雨林地帯の海岸平野から内陸に入っていくと、高原地帯、北東部のサバンナが続きます。南部は険しい山地で熱帯雨林におおわれています。
シェラレオネとの国境に近い山地から発するニジェール川は、大陸の内部のほうに流れ、大きく湾曲してギニア湾に注ぎます。

歴史

古くはガーナ王国、マリ王国などの領土でした。
18世紀に、北方から移ってきたフルベがイスラム化して、ジハード(聖戦)を起し、フラニ王国をつくりました。
19世紀、ハジ・ウマルが広大な領域をもつ、トゥクロール帝国を形成。
1870年、マリンケのサモリ・トゥーレによりサマリ帝国が成立しました。
1882年、植民地としたフランスに対して、サモリは16年にわたって激しい抵抗運動を続けます。

1947年、ギニア民主党(PDG)が結成され、書記長にセク・トゥーレが就任。
58年、フランス第5共和政憲法のもとの住民投票で、他の植民地がフランス共同体内の自治共和国となった中で、唯一完全独立を選びました。

社会主義路線をとり、67年からは中国の人民公社の影響を受けた地方組織が作られていきます。
77年に、物資の不足などから暴動が起こり、国内経済は自由化政策にかわります。

84年、トゥーレの死後、無血クーデターが起こり、コンテ大佐が大統領になります。PDGと国民議会は解散。
93年、複数政党制による大統領選挙でコンテは再選。

産業・経済

ボーキサイトの産出量は世界第2位、埋蔵量は世界の約3割。加工用の電力のため、旧ユーゴスラビアの資金援助でダムが建設されました。
輸出の43.4%はボーキサイト、16.5%はアルミナ。金が13.3%(94)。
GDP(国民総生産)の2割、税収の5割を鉱業が占めます。
ニンバ山には多量の鉄鉱石が埋蔵されています。

就業人口の7割は農民。パイナップル、コーヒーなどを産し、米などの自給を目指しています。

コンテ政権は市場経済化路線を推進。86年、IMF(国際通貨基金)、世界銀行との協定で構造調整計画を実施、公務員9万人のうち、4万人を解雇しました。

主な貿易相手国は、輸出はベルギー、ルクセンブルグ、アメリカ、アイルランド。
輸入は、フランス、コートジボワール、アメリカ。

日本との関係は、貿易では輸出が11億9600万円。魚の冷凍フィレ、イカ・タコ、木材、アルミニウム。
輸入が17億4300万円。自動車、鉄鋼板など(96)。
経済協力としては構造調整政策を支援し、有償資金協力が96年度まで160億円。無償資金協力が226億円、技術協力実績が32億円になります。

アルミニウウムの生産工程

ボーキサイト
カ性ソーダ
蒸気
重油
→アルミナ工場 アルミナ →アルミニウム
電解工場
 
  水晶石  
ピッチ →電極 →アルミニウム
コークス    
    電解電力  

教育

68年に8つの言語を国語として教育に取り入れようとしましたが、84年からは教育にはフランス語を採用。

<この人>のプロフィール

初代大統領 セク・トゥーレと
アフリカ音楽 カンテ・マンフィーラ

セク・トゥーレ


1922年 生まれ。マリンケの出身。国民的英雄サモリ・トゥーレの孫といわれています。
45年 郵便労働者として郵政労組を結成。
46年 バマコに800人の政治指導者が結集したアフリカ民主連合結成大会に参加。
47年 短期間投獄されます。
48年 ギニア労働総同盟を結成。
50年 フランス労働総同盟の西アフリカの責任者となります。

52年 ギニア民主党の書記長に就任。
53年 ゼネストを指導。
55年 コナクリ市長。
56年 フランス国民議会議員に選出されます。
58年 フランス第5共和政憲法の賛否を問う国民投票では、拒否を呼びかけ、
ギニアを完全独立に導きます。首相、次いで大統領に就任。
独立後、内外に急進的政策を進めました。
60年 レーニン平和賞受賞。
84年 死去。

カンテ・マンフィーラ

1946年 生まれ。東部の町、カンカンで14歳まで過ごしました。

コートジボワールのアビジャンで、叔父と暮らします。
ギニア人の結婚式などで、バラフォンとギターで演奏。
教育資金を支援してくれるスポンサーを得て、アビジャンの音楽学校で学びます。
最初にアンデパンダンス・ジャズに参加。
シングル「ホロヤ(自由)」がアビジャンでヒット。

親友がマリのモプティに帰るとき、同行します。
70年、父の死を知らされ、カンカンに戻る決意。ギニア国境を越えると逮捕されると警告され、帰郷を延期します。
バマコのアンバサドゥール・ドゥ・モテルに参加。

78年、アビジャンに移ります。1年後にはトップの座につきました。
親戚たちが家に集まってきたことや、経済状態が悪化したことから、パリに移ります。

85年、パリに移住。

CD
kanté manfila
n’na niwal
é−kankan blues chapter U から
(発売元ボンバ・レコード)

ンナ・ニワレ(おかあさんたち、ありがとう)−6人の母親への感謝の歌。
もし君が人生で何かを成しとげたいのなら、母親たちを幸せにするためにあらゆることをやることだ・・・」

ビー・モー(今日の世界)
近頃ではすべてのものが金に支配されている。人々は金によってのみ動かされる。友情もなく、人間性ももはやない。金が世界を支配する。金が私をおびやかす」

主な参考資料
『アフリカを知る事典』(平凡社)『データ オブ ワールド 1998年版』(二宮書店)『95−96 ビジュアル・データ』(同朋舎出版)
外務省ホームページ

いろいろ情報

○外務省のホームページに「各国・地域事情と日本との関係」がのっています。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/index.html#menu

○アフリカにかかわるNGO、研究者などで構成されているネットワーク「アフリカ日本協議会」のホームページができました。
http://www.zzz.or.jp/~kazutiyo/AJF.html

○写真がたくさんのっている西アフリカ紹介のホームページもあります。
http://www.zzz.or.jp/~kazutiyo/index.html

○6月13日(土)「“地球上のすべての音楽”を通じて、世界と出会い、コミュニケーションを図ろう」という
「フェスティバル・コンダロータ’98」の2日目に、アフリカの音楽家が出演します。
セネガルの打楽器奏者アローナ・ニジャエ・ローズ(ドゥドゥの息子)、タンザニアの親指ピアノの奏者フクウェ・ザウォセ、マリのコラ奏者トゥマニ・クヤテ。bunkamura シアター・コクーンで。

「木曜日はアフリカ」ホームに戻る