第6回

1998年2月26日(木曜日)はスーダン

目次

国のあらましと地図/自然/歴史
産業・経済
この人にとってのスーダン[岸恵子さん]
1ページの旅『ナイルのほとりで』
難民問題とその暮らし
2つの表現だけのアラビア語レッスン
いろいろ情報

独立−1956年
国名−スーダン共和国
面積−251万平方キロメートル

人口−2810万人(1995)
首都−ハルツーム(人口93万人−93)

住民−アラブ人、ディンカ族、ヌエル族、ヌビア族
言語−アラビア語、英語、ディンカ語、ヌエル語、ヌビア語ほか

宗教−イスラム教、伝統宗教、キリスト教

自然

白ナイルと青ナイルがハルツームで合流します。
北部はヌビア砂漠、中部は河川の流域、南部は熱帯の沼沢地となります。
国土はアフリカで最大。

歴史

紀元前9世紀ころ、クシュ王国が栄え、前750年ころにはエジプトを占領。
4世紀にエチオピアのキリスト教国に滅ぼされます。
16世紀に成立した王国は、イスラムにもとづいて統治。

1821年、エジプトが侵攻。85年、宗教指導者マフディーが駐留軍を駆逐しますが、再び征服されます。
99年、イギリス、エジプトの共同統治協定が調印されます。
1924年から単独で統治したイギリスは、民族運動が広がるのを防ぐために、南部地方を北部から切り離し、
そこの住民にはアラブ的なものを禁止しました。

56年に独立。地方自治を要求して南部が反乱を起しました。
72年、ヌメイリ政権は自治を認めて、内戦が終わりました。
83年、イスラム法を導入。南部で再び内戦が起こります。
85年、軍事クーデターで、ヌメイリ大統領を追放。

1997年の動き

3月、反政府側が2つの拠点都市を制圧。
10月、政府と解放軍が3年ぶりの交渉をケニア・ナイロビで再開します。
12月、反政府勢力へ、アメリカの国務長官が支援を表明。

文化

多くは未発掘ですが、ピラミッドや神殿などクシュ王国の遺跡があります。
鉄の文明でも知られ、また草書体のメロエ文字を発明。

産業・経済

「スーダンに石油はないが水がある」と、「アラブの穀倉」をめざして、開発が進められています。
アワの生産高は世界10位、もろこしは6位です。
また、ごまは世界4位。

かんがいされた河川地域で栽培される綿花は、長い繊維の優良種です。

輸出品としては、綿、ごま、羊、天然ゴム、金など。
日本との貿易では、綿、天然ゴムを輸出し、自動車、電気機械などを輸入しています。

この人にとってのスーダン
[岸恵子さん]

横浜生まれ。女優。1957年以来、パリ在住。
85年、ナイル遡行のテレビ・ルポでスーダンを訪れました。

  長い土塀が青いペンキを塗った門のところでぽっかりと穴を開け、中をのぞくと広々とした構えの内庭に地球色の空間があった。間隔を置いてついて来るスタッフに、ここに入ります、とサインを送って私はひっそりとしている家の方へ歩いていった。

突然、眠ったような静寂が割れて土の家から一人の男が飛び出して来た。身をかがめ私に突進して来るその男はひき締った細い体躯、頬のそげ立った精悍な顔が怒りで上気していた。

「耕司さん!」私は思わずキャメラマンの名を呼んだ。
「キャメラ絶対止めないで」と二の句を継げるすきも与えず、男は私の前に立ちはだかった。

「ホワイ」男は私とキャメラを睨みつけた。
「ここはおれの家だ。あんたらどうしてここにいる。何をしている」吠えるように怒鳴る。
「アイ・アム・ソーリー」私はたじたじとひるんで男に負けずに怒鳴った。
「ノー・ソーリー・ディス・イズ・マイ・ハウス、ホワイ・アーユーイン・マイ・ハウス?」
「そのあなたの家が美しいので、つい無断で入り込みました。私たちは日本人です。無作法はお詫びします。あまり美しいので・・・・・・」
「ビューティ?(美だって)」ふざけるな、というように男は狂暴な表情を作る。
「ウワット・ビューティ、ウェアー・イズ・ビューティ!」
何の美だ、美なんてどこにある、と叩きつけるような男の怒りに、私は積りに積っていたストレスが滝のしぶきのように清々しく洗われていくのを感じた。

「岸さん、行きましょう」
「もう止めましょう」と言うスタッフの声が聞えた気がしたが、私は叩きつけてくる男の怒りを全身に受けとめて立っていた。
「我々は貧しい、我々は醜い。我々は黒い。だからあんたらはここにいる。おれらを撮(うつ)しに来た!」
男の顔はうつくしかった。ふとエジプトの考古学博物館でみたイクナトンの奇妙に官能的な頬のそげた首像を思い出した。

 

岸恵子『砂の界(くに)へ』文芸春秋 から

1ページの旅
ハムザ・エルディーン著ナイルの流れのように中村とうよう訳 筑摩書房

冬が近づくと、ダムの水門が閉ざされ、水位が高くなり、
 

もとの家のあたりが水びたしになったでけでなく、新しい家のすぐそばまで水がせまった。
背の高いヤシの木も水につかり、こずえの先のほうがやっと水面に出ているだけとなった。畑も家のすぐまわりの少しばかりだけ、そして家畜を飼う場所も家の裏の砂漠しかなくなった。
ナイル川のそばの豊かな土地はすべて水の底になってしまい、砂漠だけが残された。
その冬は、だれも何をすることもできず、ほんやりとすごすしかない状態だった。・・・

冬のヌビアでは、日のあたっているところは暑く、日かげは寒かった。
それで村の人たちは、日なたと日かげのさかい目の線にそって、砂漠の上にすわりこみ、むかしの思い出ばなしをしたりしながら時間をすごした。
そこが日かげになるとまた日なたを追って、さかい目の線まで動いてゆく。砂の上の日なたと日かげの線に、人びとが並んで、大きな円をえがいていた。・・・

エジプト政府のお役人が来て、水没のお見舞いの金を少しばかり渡してサッサと帰ってしまったあと、来年はどうなるのだろうか、という問題を、男たちは話しあっていた。しかし話しあってもどうにもなる問題ではなかった。
やっとみんなは立ち上がって、冬の野菜を作るための新しい土地をたがやし、ロバにバケツを積んで来て水をまいた。しかしそこは砂の土地なのだ。いくら水をまいても足りなかった。・・・

 
3か月して、冬が終わると、水が引き始めた。
  ナイル川のもとの岸のところもまで水がもどってゆき、そのあとにベタベタした泥が残された。
初めのうちは歩くと足が泥に沈んだが、それもかわいて、草が生えてきた。
ヤギや羊たちも砂漠から帰ってきてその草を食べた。
地面のくぼもは水たまりになっていて、手ですぐつかまえられるほど魚がいた。人間も犬も猫も、食事のたびに魚を食べさせられ、うんざりしてしまった。

もとの畑のところには豆やトウモロコシなど夏の野菜が植えられ、やがて豆の花が咲くと、あたりはその香りに包まれた。食事のとき以外はだれも家の中にはいなくなった。
夜も家の外で眠り、夜が明けると朝のお祈りの知らせで目ざめ、朝食をすませてすぐ畑で仕事。そうやって村の人たちは一日じゅう畑で働くのだった。

 

著者は1929年、ヌビアに生まれた、ウード(アラブの弦楽器)演奏家、作曲家。
エジプトでカイロ大学で電気工学を修めながら、ファード王立音楽院で古典音楽とウードの奏法を習得。
イタリアのサンタ・チュチリア音楽学校で、西洋の古典音楽とクラシック・ギターを学びました。
64年に渡米し、コンサートや映画音楽などで活躍。
81年に、ウードと琵琶の比較研究のために日本を訪れました。

難民問題とその暮らし

近隣諸国から
スーダンへ
1970年代から、内戦と飢餓により故国を出てきた人たちを受け入れています。
エリトリアから約35万人
エチオピアから約5 万人
チャドから4000人以上になります。
難民の45%が遊牧民で、35%が農民です。

UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は15のNGO(民間団体)と協力して
30の受け入れ施設と定住地域で、難民の半数以上を支援しています。
残りの人々は、長い間スーダンの地域社会の中で生活しています。

スーダンから
近隣諸国へ
一方、スーダン南部では、政府とスーダン人民解放軍(SPLA)の戦闘を避けて、
逃れていった人たちがいます。
ウガンダへ20万人以上
ザイールに11万人
エチオピアに約8万人
ケニアと中央アフリカにそれぞれ約3万人

1997年6月現在のUNHCR資料より

*難民の状況について詳しい情報はUNHCRのホームページへアクセスしてください。
http://www.unhcr.or.jp

ウガンダ北部モヨ県の定住キャンプに暮らす難民の場合 10年以上も前にウガンダにやってきた人もいる定住キャンプでは、各家族に住いのスペースと耕作地が分けられます。
彼ら自身で建てている家は、プラスチック・シートの仮住まいではなく、スーダンで暮らしていたときと同じ、土壁に草ぶき屋根。

簡易建設や恒久的な建物で、小学校が建てられています。
学校の先生のほとんどは難民から。

女性が栄養・保健衛生を学んだり、裁縫などの技術を学び、収入を得ることができるような事業も行なわれています。

2つの表現だけのアラビア語レッスン

これはたいへん気に入りました ユアジブニー ハーザー
満腹です アナー シャブアーン

『超やさしいアラビア語入門』南雲堂フェニックス

いろいろ情報

○ハムザ・エルディーンのCD『エスカレー−ナイルの水車』(MONESUCH WPCS-5124)には、
タイトルになっている、水車番をするヌビアの少年の1日の生活を音で描いた曲の他、2曲が入っています。

○横浜の由規さんから届いたメールから
「『ひとこと会話』に、由規の3大単語、『ありがとう』と『おはよう』と『大好き!』があればうれしい」
今回のアラビア語では、「大好き!」ではありませんが、同じような表現をのせました。
今後は、紹介できる場合は入れていく予定です。
また、少し違う表現になりましたが、「おいしい」をできるだけ取り上げようと思っています。

○第4回<エジプト>で「この人にとってのエジプト[合田佐和子さん ]」の表題に誤りがあったことを
おわびします。

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