第4回

1998年2月12日(木曜日)はエジプト

目次

国のあらましと地図/自然/歴史
産業・経済/モノがつなぐアフリカと日本[フィンクス綿の話]
この人にとってのエジプト[合田佐和子さん]
エジプトの味/5つの表現だけのアラビア語レッスン
いろいろ情報

独立−1922年
国名−エジプト・アラブ共和国
面積−100万平方キロメートル

人口−5923万人(1995)
首都−カイロ(人口680万人−92

住民−アラブ系エジプト人、ヌビア人、
言語−アラビア語(公用語)、ヌビア語、英語、フランス語
宗教−イスラム教、キリスト教(コプト教)

自然

国土のほとんどが砂漠で、耕作に適しているのは、ナイル川のデルタ地帯と川沿いの細長い緑地帯だけです。
地中海性気候の北部の海岸地方のほかは、砂漠性気候。

歴史

紀元前3000年ころに、ナイル川の上流部分と下流部分を統一した王朝ができました。
前2500年ころが古代エジプト文明最初の繁栄期で、ピラミッドが造られました。
−王朝時代、かんがい農業やピラミッド建築などのために、天文学、暦学、幾何学などが発達しました−
前200年ころからローマの干渉を受けるようになり、クレオパトラ7世が敗れた前30年に、属州になります。

636年にアラブ・イスラム軍に征服され、アラブ化が始まります。
1517年からオスマン・トルコに支配されます。

1805年にオスマン軍のムハンマド・アリーを擁立して王朝を成立。
69年にスエズ運河が完成。
イギリスに軍事支配されたのちに、1914年に保護国となります。
22年に王国として独立しましたが、イギリス軍は続けて駐留。

48〜49年、パレスチナ戦争(第1次中東戦争)でイスラエルに敗北して、反イギリス、反王制の機運が高まりました。
52年、ナセルたち将校がクーデターを起こし、53年に共和国が成立。

56年、スエズ運河を国有化したことで、スエズ戦争(第2次中東戦争)を誘発しました。
58年、シリアと合併してアラブ連合共和国が成立(61年に解消)。
67年、第3次中東戦争で敗れ、シナイ半島を失います(82年に回復)。
73年、第4次中東戦争でスエズ運河を取り戻します。

79年にイスラエルと平和条約を結んだことで、アラブ諸国から孤立。
89年、アラブ連盟に正式に復帰(90年、本部をチュニジアのチュニスからカイロに移しました)

産業・経済

石油と天然ガスが豊富。
国内の消費電力は、石炭やアスワン・ハイ・ダム(1970年に完成)の水力によっています。
アスワン・ハイ・ダムは、アスワン・ダム(1902年)ができた後、より本格的にナイルの水の有効利用を図るために計画され、ソ連の援助により完成しました。
下流では塩害などの問題が出てきています。

農産物では小麦(世界計の1%)、米、タロいも(世界8位)、ごま・オリーブ(10位)、トマト(5位)、なつめやし(2位)、オレンジ類(7位)、綿(世界計の2%−1995)などを生産していますが、74年から食糧の輸入国となっています。

ナイル・デルタはローマ帝国からオスマン帝国にいたるまで、その穀倉地帯でした。
1860年代のアメリカ南北戦争を境にして、綿花の単一栽培に変わり、
イギリスの綿織物工業に安価な綿を提供していきました。
アスワン・ダムの完成により、綿花の生産は一挙に増えましたが、市場の値動きに翻弄され続けてきました。

工業は、1930年代から綿工業を中心に発展。
70年代以降、化学肥料、機械製品、金属工業の分野が伸びています。

主な外貨獲得源は、海外出稼ぎ労働者からの送金、スエズ運河通行料収入、観光収入、石油(原油・石油製品)。他に輸出品としては、綿糸、衣類、果実と野菜があります。

首都カイロのほかアレキサンドリア(338万)、ギーザ(214万)の人口100万人を超える都市があり、20万人以上のは21市あり、都市人口率は44%。

モノがつなぐアフリカと日本
[フィンクス綿の話]

エジプトの綿花は日本の輸入額では、アメリカ、オーストラリア、インド、パキスタンにつぎ、5位となっています。
高い品質で定評があるエジプト綿の中で、最高級のものを選び抜いて輸入したのがフィンクス綿です。

エジプトで

カイロで鑑賞用に作られた綿と、海島綿(アメリカ・カロライナ、ジョージアなどから産出される最良の綿花)を交配し、
改良を重ねて生まれました。

政府は、連作によって品質が低下しないように、作付け地域を毎年変えるなど工夫しています。

ひとつひとつ手でつまれます。収穫後、品質を選別され、ていねいに人の手でかくはんされます。
この作業(ファルファラ)は、エジプト綿独特のもの。

→日本へ

輸入されたフィンクス綿は、カネボウ繊維浜松工場に特設されているフィンクス・コーナーで紡がれます。
いろいろな綿をブレンドしていかによいものを作るか、綿紡績ではコストのことを考え、そこに力を注ぎますが、
フィンクスは原綿のすばらしさを、単一綿で生かします。

熟練した職人の手で織られます。
染織・仕上げも天然の風合いを大切にするため、薬品処理はできるだけ避けられています。

フィンクスは繊維の長さ、強さ、繊細さにすぐれ、絹にも似た光沢、カシミヤのような肌ざわりをもっています。
製品は、洗うほどになじんできます。

資料提供 フィンクス協会

この人にとってのエジプト
[合田佐和子さん]

高知県生まれの画家。武蔵野美術大学デザイン科を卒業。
オブジェ、油絵、銅板、ポラロイド写真、舞台・映画美術に、高い評価を得ています。
85年4月から1年間、エジプトで暮らしました。

「あれはたしか、1978年のことだった。はじめて訪れたエジプトで、最南端の街アスワンにまで足をのばした。ぬけるような空がどこまでもつづき、ゆるやかに流れるナイル川を、白いファルーカ(帆船)がすべってゆく。
カラブシャ・ホテルから出て、道を渡り、白黒まだらの羊の群れをかきわけ、ファルーカに乗ろうと、水辺に下りる石段のちょっと手前の路地を通りぬけた。なんのへんてつもない、石ころまじりのさびれた砂地を通り、石段に出たとき、とても奇妙な感じがした。
はじめて来たんじゃない!
いつか通ったことのある、というよりも、以前住んでいたことのある、という気分におそわれたのだ。

なつかしさに胸塞がれるような土地の磁力。この石ころ道と石段に、引き寄せられるようにして、たったそれだけのことで、私は、娘2人を連れて、遠路はるばる来てしまったのだ。なんで、もっと近くに見つけなかったのよ! 三軒茶屋くらいだったらよかったのにねー、と娘たちは嘆息する。
私は今、この石段からはじまる、ジャバルタゴウクという名のヌビア人の村の、角から5軒目に住んでいます。

アスワンの街のはずれにあるこの村は、アガサ・クリスティの映画「ナイル殺人事件」の舞台にもなった、オールドカタラクト・ホテルの先にあり、ここから南は、ずっと岩山と砂漠がつづいています。アスワン・ハイ・ダムをこえると北回帰線、されに南下するとアブ・シンベル神殿、そしてその向こうは、スーダンの国境です」

合田佐和子『ナイルのほとりで』朝日新聞社

エジプトの味

−カイロの町角の「フール屋」さんで−
フール(そらまめと同じもの)をひと晩以上かけて柔らかく煮た「フール・ミダンミス」に、オリーブ油とレモン、塩をかけ、「アイシ」(エジプトの丸いパン)をちぎって、浸して食べます。
するつぶしたゴマにヨーグルトを加えたペースト状の「タヒーナ」、生のフールを細かく挽いて、香草で味をつけ、丸めてあげた「ターメイヤ」。「トルシ」(漬け物)とサラダというのが典型的なセット・メニューです。

出典『世界の子どもたち エジプトナイルの子 アフマド』(小松義夫 写真・文、偕生社発行)

5つの表現だけのアラビア語レッスン

こんにちは アッサラーム アレイクム
→(それに答えて) ワアレイクム ッサラーム
ごきげんいかがですか カイファ ハールカ
→おかげさまで、元気です アルハムドゥ リッラー アナ ビハイリン
ありがとう シュクラン
→どういたしまして アフワン
どうぞ(すすめるとき) タファッダル
さようなら マア ッサラーマ
→(それに答えて) アッラー ユサッリムカ

いろいろ情報

カイロにはアフリカ大陸唯一、地下鉄が走っています。南の郊外ヘルワンから町の中心を通り、新市街のヘリオポリスまでの1線33駅です。

 

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