第2回

1998年1月29日(木曜日)はリベリア

目次

国のあらましと地図/自然/歴史/この人とリベリア[モンロー]
産業・経済/モノがつなぐアフリカと日本[便宜置籍船]
音楽/いろいろ情報


独立−1847年
国名−リベリア共和国(英語の発音はライベリア)
面積−11万平方キロメートル

人口−270万人(1994)
首都−モンロビア(人口42万人94

住民−クペレ、バサ、クル、ゴラ、キシなどの民族、
アメリ コ・ライベリアン(アメリカ系)
主な言語−英語、クペレ語、バサ語、クル語、ゴラ語、キシ語
宗教−伝統宗教、キリスト教、イスラム教

自然

北西から南東にのびる海岸線は全体に単調です。
北部の山地からいくつかの川が流れ、平野ができています。海岸地帯のすぐ近くから熱帯雨林。内陸部は草原。ギニア、コートジボアールとの国境近くにあるニンバ山は標高1752メートル。

歴史

15世紀頃、胡椒に似た種子(ギニアショウガ)を手に入れたヨーロッパの航海者が、「胡椒海岸」と名づけました。

1816年に、アメリカ合衆国で設立されたアメリカ植民協会が、黒人解放奴隷のアフリカへの帰還を計画。
22年、最初のグループが上陸。再移住区を建設していき、33年、Liberty(自由)からとったリベリア連邦と命名。
47年に合衆国憲法を基本にした憲法を制定して、独立を宣言しました。

20世紀になって、元々住んでいた人たちの差別と圧政への抵抗が強くなりました。
財政が悪化。1926年、アメリカのファイアストーン社にゴムノキ農園用地を99年間貸して、財政援助を受けました。

71年、大統領になったトルバートはすべてのリベリア人の平等を表明。縁故主義的支配廃止などを進めました。
79年、政府の米価の値上げ発表に対して反対デモ。
80年、ドゥによるクーデターでアメリコ・ライベリアンの少数支配が終わりました。

89年末に、反政府のリベリア国民愛国戦線(NPFL)が蜂起して内戦。
西アフリカ諸国共同体(ECOWAS)も軍事介入。90年、NPFLから分裂したジョンソン派がドゥ大統領を殺害し、
91年、ソーヤーが暫定政権を立てました。NPFLは認めずに、92年からソーヤー派の戦線との戦闘が激化。
93年になり、当事者代表が包括和平交渉に合意。95年、和平協定に調印。
96年、停戦が発効されました。

1997年の動き

1月武装解除。
5月に予定されていた総選挙を、西アフリカ諸国共同体(ECOWAS)リベリア問題首脳級会議は7月に延期。
7月、西アフリカ諸国平和維持軍が不測の事態に備え、
カーター元アメリカ合衆国大統領をはじめ500人の国際選挙監視団が展開する中で、
大統領と議会選の投票が行なわれました。
リベリア国民愛国戦線(NPFL)のチャールズ・テーラー議長が当選。
8月、新しい大統領として就任しました。

この人とリベリア
[モンロー]

当初は「キリストの都市」と呼ばれてた現在の首都が、
アメリカ合衆国第5代大統領のジェームズ・モンローからとった「モンロビア」に改名したのは、1824年のこと。
就任は17年。12年に第2次英米戦争があり、19年にフロリダをスペインから購入したという時代です。

1823年、大統領から議会に対する年頭教書の形で発表された外交政策が「モンロー主義(Monroe Doctrine)」。
ヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸へ不干渉の原則をたてるべきと宣言したものです。
(国務長官のJ.Q.アダムズの意見によるといわれています)。
国際法のような統制力をもつものではありませんが、実際的な効果がありました。

○ヨーロッパは西半球にこれ以上、新しい領土を獲得すべきではない。
アラスカを植民地としているロシアのこれ以上の南下をおさえる目的もありました。

○ヨーロッパ諸国は新大陸の諸国家の問題に対して、干渉すべきではない。
独立したばかりのラテン・アメリカ諸国に脅威を与えることを防ぐため。

○アメリカの政治制度はヨーロッパ諸国と異なるから、ヨーロッパの政治制度を新大陸に広げようとすることは、
アメリカの平和と安全にとって危険なものと考える。

参考資料『世界の歴史 新大陸と太平洋』(中央公論社)『世界の歴史 アメリカ合衆国の発展』(講談社)

産業・経済

90年から広がった内戦で、経済は壊滅状態となりました。

かつて、鉄鉱石の産出国としては世界10位、アフリカでは南アフリカ共和国に次ぎ2位(現在はモーリタニア−94)
1951年に始まり、61年にはそれまで支柱となっていた天然ゴムの輸出額を超えました。
政府が主に所有する会社、リベリア・アメリカ・スウェーデン、ドイツ・リベリアの合弁会社などで生産。
輸送のための全長490キロメートルの鉄道が敷かれています。

天然ゴムも世界6位、アフリカ最大(現在はナイジェリア−95)の産出国でした。
1900年代初めに、天然ゴム農園を始めたのは英国系の会社でしたが、
大規模な農園が開始されたのは26年。タイヤ・メーカー、米国のファイア・ストーン社が貸与契約を結んでから。
(30年以降、アメリカとの関係は強くなり、アメリカ・ドルがそのまま公式通貨として使われました)
77年のゴムの栽培面積は、ファイア・ストーン社が3割、9000人のリベリア人園主が約5割を占めていました。

豊富な木材も輸出していました。熱帯雨林は減少の傾向にあります。
便宜置籍船が多く、船舶保有数「世界1」が続いていました。

モノがつなぐアフリカと日本
[便宜置籍船の話]
Flag of Convinience(リベリアでの正式名称は Open Registry)

1922年に中米のパナマで登録されたのが最初といわれています。
外国船主に税金などで有利な条件を与えて船舶を登録させ、関連収入を政府の財源にしていく制度です。

国内が未開発で、資本や技術にほとんど蓄積がないという条件にあった政策だと、
リベリアではタブマン大統領(1946年に就任)が打ち出し、48年に始めました。
鉄鉱石、天然ゴム、木材の分野を中心に大小30社以上の外国企業が参入。

経済の発展に貢献する一方、外国人企業に開放的でありすぎたという弊害もありました(70年代に政策転換)
そして、世界最大の置籍国となっていきました(78年には登録船腹量は世界の20%)。

便宜置籍船制度に共通する形態
−OECDの海上運輸委員会−

登録される国

外国

政府

ペーパー・カンパニーの
「船主」

実質の「船主」

  ←船籍をとる ←ペーパー・カンパニーを設立

所得税−免除もしくは低い登録料・トン税−低い

登録船に国内管理規則や国際法令を適用する力や機関をもたない

管理する意思や力はない 税負担の軽減

ゆるやかな規制

外国人の乗り組みが自由に認められる 賃金が低い国の船員を乗せ、人件費を安くする

本国の規制を離れた自由な企業活動

実質経営者(1979年)−UNCTAD
1位 米国27%、2位 ホンコン21%、3位 日本10%

日本のリベリア向け輸出の95パーセント以上が船舶です。
書類上の移籍で、リベリアの輸入統計には計上されていません。

日本からの船舶の「輸出」は、世界的にタンカーや貨物船が増え、大型化していった70年代前半にのびました。
世界景気の停滞で、海運が不況となった77年以降に急減。
日本が輸出した貨物の14%、輸入の26%がリベリア籍の船によります(80年当時)。

80年にクーデターで政権についたドゥ大統領は海運記念日に
「この制度にはクーデターの影響はない」と表明しました。

90年の船舶保有量は12.9%で1位でしたが、94年にはパナマが1位(オイルタンカーについてはリベリアが1位)。
日本からの輸出も、95年には1位でのパナマ(約60%)に次ぐ2位(16.4%)。

参考資料『[特別経済調査レポート 昭和55年度]リベリアの政治経済事情』JETRO
『データブック オブ ザ ワールド 1997年版』二宮書店

音楽

ポピュラー音楽がサハラ砂漠以南のアフリカ諸国で芽生えたのは、
20世紀初めのリベリアと隣国シェラレオネとか。
ギターの普及。ブラス・バンドの導入。
モンロビアや隣国シェラレオネのフリータウンの酒場では、
ギターと簡単な打楽器を伴奏にして歌われるポップソング、「パームワイン(ヤシ酒)音楽」
は1930年代にはレコードに吹き込まれています。

そのようなポップソングと、アフリカ的なスタイルとなった讃美歌、ブラスバンドのマーチが影響しあって、
のちに<ハイライフ>と呼ばれるようになる、西アフリカ独自のダンス音楽を生みました。
しだいに、ナイジェリアなどに中心を移していきました。

出典 「アフリカを知る事典」(平凡社)<ポピュラー音楽−中村とうよう>の項

全体の主な参考資料
『アフリカを知る事典』(平凡社)『95−96 ビジュアル・データ』(同朋舎出版)『データ オブ ザ ワールド 1997年版』(二宮書店)

いろいろ情報

前回、1月15日<エチオピア>で紹介した道祖神のツアーについて、詳細を知りたい場合は、
道祖神のメールアドレスttgtyofk@blue.ocn.ne.jp へ。

西アフリカの布と小物の店「アフリカ屋」には、プリント、泥染め、藍染め、ポストカードなどの小物から、直径30センチを超えるジェンベ(たいこ)といった大物(?)まで、いろいろなものが揃っています。
地下鉄千代田線・京成戦の町屋駅から、都電荒川線沿いに早稲田方向に2分。右側にある「履き物や」の左半分。営業は10時から午後7時。火曜定休。電話03−3892−1878

地下鉄日比谷線広尾駅から徒歩2分のところに「アフリカ屋パート2」。広尾商店街を入り、右側にある「ベネトン(子ども服)」と「奥本いろは堂文具店」の間の細い路地を入り左側(入っていいかどうか、迷うくらい細いので注意)。
火曜日午後1時から7時のみ営業。電話020−75−84415 「電話をしてから、きていただけますか」とのことです。


「木曜日はアフリカ」ホームに戻る