第1回

1998年1月15日(木曜日)はエチオピア

目次
国のあらましと地図/自然/歴史/産業/モノがつなぐアフリカと日本 [コーヒーの話]/
この人にとってのエチオピア
[ランボー]/1ページの旅 『エチオピアで井戸を掘る』/
日本のNGOの活動/エチオピア料理の作り方/
5つだけのアムハラ語レッスン/いろいろ情報

創設−紀元前1000年頃
国名−エチオピア連邦民主共和国
面積−110万平方キロメートル

人口−5494万人 (1994)
首都−アディス・アベバ (人口 232万人−94)」

住民−オロモ、アムハラ(セム系)、ティグレ(セム系)、シダモ、ソマリなどの民族グループ
主な言語−アムハラ語(公用語) 英語
宗教−イスラム教、キリスト教(エチオピア正教)

自然

中部から北部の高原は、ナイル川などの峡谷に刻まれ、テーブル状になった台地。
森林破壊が進んでいます。
北西部のタナ湖は青ナイルの水源。
静かに流れ出した後、雨季には幅500メートルにもなる滝になります。
中央に南北に、大地の裂け目、大地溝帯(リフト・バレー)が走り、底には湖が連なります。
そのほとりに、林間の保養地があったりします。
東部は乾燥地帯。

歴史

伝説では、ソロモン王とシバの女王の子、メネリク1世により、
紀元前1000年頃に創設されたといわれています。
1世紀から栄えたアクスム王国は4世紀にキリスト教を国教としました。
1855年に再統一。
89年からのメネリク2世の時代に国土を広げ、ヨーロッパの進出を阻みました。
1931年、ハイレ・セラシェが制定した憲法では、皇帝に絶対権。
36年、イタリアに併合されますが、41年に独立。
62年、連邦を形成していたエリトリアを併合。
63年のアフリカ統一機構(OAU)創設に貢献。
74年、エチオピア革命で社会主義を宣言。84年干ばつなどから深刻な飢餓。
91年、反政府の人民革命民主戦線(EPRDF)が進軍し、暫定政権を樹立。
エリトリアでも人民解放戦線の政権。
93年にエリトリアが独立。
94年、初めての複数政党制による議会選挙を実施しました。

ラリベラにある13世紀初め、岩をくりぬいて建てられた教会群

産業

90%近くが、農牧林水産業に従事しています。
工業では、粗糖、肉類、チーズ・バター、牛皮・羊皮・山羊皮、ビール、紙巻たばこ、綿糸・綿織物、製材・紙類、ガソリン・軽油・重油、セメント。

輸出品は、コーヒー豆64.0%、皮革16.2%(1993)、薬用植物、石油製品、砂糖
輸出相手国として、日本はドイツに次ぎ2位
日本からの輸入品は、自動車、機械類、鉄鋼、タイヤ・チューブ、電気機械。

国民総生産(GNP)の50パーセントはコーヒーによるもの。

モノがつなぐアフリカと日本[コーヒーの話]

エチオピアはコーヒーの発祥の地?
コーヒーの語源は、カファ地方に由来するといわれています。エチオピアでの呼び方は
「ブンナ」。1000年前から飲まれているそうです。
アラブ商人がアラビアにコーヒーを持ち帰り、
中東で飲まれるようになったのが、16世紀。
そこからヨーロッパなどさまざまな地域に広がっていきました。

生産から輸出まで

生産者

南西部の1500〜2000メートルの高地が主要な産地。
東部山岳地帯は、有名な「モカ・ハラー(ハラレ)」を産します。
品種はすべてアラビカ種。モカ・フレーバーと呼ばれる香りや酸味などが特徴。
一部は野生(収穫率は悪い。病虫害に強い)。
シダモやハラルでは植樹が定期的に行なわれ、せん定もされています
(単位面積あたりの生産量は高い)。
収穫期は11月〜3月。干ばつの影響による被害が、94年から激しくなっています。

とった後の処理が
「水洗式」


「非水洗式」

コーヒー紅茶開発省が出資する
会社が(ECMC)がすべて管理
農業協同組合ー 脱穀作業
 
オークション・センター(アディス・アベバ、ディレダワ)
 


ECMC


輸出業者ー選別加工
ほとんど機械化はされていない)

非常に上質。
グレード2に格付けされている。
政府機関が品質、等級をチェック
等級は300グラム中の欠点により決定。
輸出の許可が出るのは8段階のうち、グレード5以上。


輸出(エリトリアのアッサブ港から)

輸出量の10%を占めます。
ほとんどは、ドイツへ。
生産量の半分は、エチオピア国内で消費。
隣国に流れる分もあります
コーヒーに関する政府機関、コーヒー紅茶開発省が、生産から輸出までを管理。
ECMCが輸出枠の70%を占めています。
世界銀行からの融資で
設備の充実化を図っているます。

「茶道」に通じていて、普通の「お茶」の楽しさ−エチオピア式コーヒーの楽しみ方
乾燥したコーヒー豆を選って水洗いして、鉄板で褐色になるまでいります。
いった豆は小さななべに入れ、年長者の間を順送り。香りを味わります。
この後挽かずに、木のうすときねですりつぶします。
土製のポットに沸かしておいた湯に粉末を注ぎ、沸いたらしばらくそのままにして、
カスを沈殿させます。
取ってのない小さなカップに注ぎます(中国製陶器が多い)。


塩かバターか香草、それらを取り合わせたもので味つけることもあります。
新しい風潮で、砂糖がよく使われるようになっています。

ポットに残ったカスは捨てずに、さらに水を入れてまたわかします。普通は三度まで。
最初が一番おいしい。このコーヒーは、年長者やだいじなお客にすすめます。
カップに残ったコーヒーかすにははっきりした線が何本かできます。
それで運勢を読み取れます。

普通、村では朝の10時に近所の女性たちが集まって、飲みます。
男はコーヒーをたてません。女性の中でも一番若い女性が好まれます。

参考資料 −社団法人 全日本コーヒー協会編集・発行『世界のコーヒー生産国』
UCCコーヒー博物館編著『コーヒーという文化−国際コーヒー文化会議からの報告』柴田書店


協力 UCC上島珈琲株式会社

この人にとってのエチオピア
[ランボー]

文学の世界を去ったフランスの詩人ランボーが、
職を求めてアラビア半島の紅海沿岸の町を歩き、
アデンでコーヒーを扱うバルデ商会に就職したのは、1880年、25歳のとき。
そして、ハラルにある代理店で仕事をすることになりました。
29歳で支店長となったときに、オガデン地方で地理調査。
植民地政策の重点がアジアからアフリカにかわりつつあった事情もあってか、
パリの学会で高く評価されました。
その後、武器商人と2人で、ショア地方のメネリック王を相手に
武器を取り引きする計画を立て、商会を辞職。
翌年、ラクダ50頭の隊商を組んで、銃などを王のもとに運びましたが、
取り引きはほとんど徒労に終わりました。
37歳で、ガンのためになくなった地は、フランスのマルセイユ。

参考資料『文芸読本 ランボー』(河出書房新社)

1ページの旅
諸石和生著『エチオピアで井戸を掘る』草思社
序章雷雨から(15ページ)

マスカラム―エチオピアの正月で九月末―を迎えると、それまで午後には必ず全土を襲った雷雨がピタッとやむ。乾燥したそよ風に、やわらかい牧草やテフの若緑が輝き始める。風に揺れる一面の緑の高原に佇み味わう爽やかさは、あの暗い雨季を経験しないでは味わえないものだろう。野山には、黄色い野菊マスカルが咲き乱れる。

マスカラムは、雨季明けの祭りの季節でもある。五世紀にヨーロッパの教会と袂を分かってから、独自な展開をとげた長い歴史を持つキリスト教の多くの祭りがこの季節に集中する。もっとも大きな祭りであるマスカル祭は、磔にされたキリストの十字架の祝祭である。マスカルは十字架を意味する。たしかに咲き乱れる十字架の花心は十字を切っている。家々の門に建てられた五メートルほどの棒の先に、マスカルの花束が結ばれ、その足元で薪が炊かれ、煙を全身に浴びる。火の周囲を回り、牛追いや鳥追いのための苔をピシッと打ち鳴らす。街は薪の煙と匂いで包まれる。人びとはこの煙の流れる方向でその年の作物の豊凶を占うという。祭りは地方によって深夜、そして明け方にピークとなる。人によれば、この祝祭は、季節の祝いに根ざしているという。

日本のNGO(民間団体)の活動

日本国際ボランティアセンター(JVC)
1985年、北部のウォロ州アジバールで、深刻さを増してきた飢餓の被災者に対する緊急医療救援を行なった後、奥にあるマーシャ村で86年から農村復興プロジェクトに取り組んできました。
96年からは、第3州北ショア県バルハット郡で、まず村の人たちとの関係作りを、と行政村ごとの会議に出たり、集落を訪ねて話し合いを持ちました。
農業省、村人との話し合いから、3か所の苗畑を選び、関心のある農民たちと苗木作りを始めました。今年の雨季の始まりとともに、苗木を家や畑の周りに植林。アグロフォレストリー(農業と組み合わせた植林)を行なっていきます。
また、湧き水を石組みで囲った池に貯めただけで、衛生状態の悪い水の問題に関して、井戸掘りなどを計画しています。
*詳しい情報は
http://www.jca.ax.apc.org/jvc

日本国際飢餓対策機構
1991年からショワ州チェハで、農耕用の牛を死に至らせる感染症「トリパノソーマ」の問題に対して、獣医師が定期的に診療活動を行なってきました。
死亡率が下がり、穀物の収量も増えてきました。
現在は、地域に住む人たちの力で診療が続けていけるように、エチオピア人の助手が家畜診療の資格を得るための訓練を受けています。また、製粉場を造り、村の人たちが組織する組合で運営して、彼らの給料などを生み出す計画です。
96年、オロモ州西ショワ県メタロビ郡で活動を始めました。村の人が利用する湧き水や川の水が汚染されているため、下痢などの病気が多く、小さい子にとっては「死に至る病」となっています。
湧き出したばかりの水をパイプで集め、コンクリート製のタンクに貯めて汚染を防ぐことを計画しています。
*詳しい情報は
http://www1.meshnet.or.jp/~jifh/

エチオピア料理の作り方

主食に、テフというごくごく粒の小さい穀物で作った、パンケーキのような「インジェラ」があります。お盆のような大きさに焼いたものを囲んで、みんなで手でちぎって食べます。色は灰色で、酸味があります(日本人は「すっぱいぞうきんのよう」という失礼な形容をしたりします)。
さまざまな材料で作られる「ワット(シチュー)」などをつけて食べます。農村の人たちにとっては、鶏や羊の肉が入るのは特別な日。卵もぜいたく品です。畑でとれる豆を粉にしたもので作る「シュロワット」がふだんのおかず。

シュロワット(どろっとした豆のシチュー)(6人分)
用意するものは、豆(日本だったら、レンズ豆、えんどう豆など)を300グラム
(本来はもっと濃厚で、400グラムくらい)。玉ねぎ100グラム。にんにく、しょうが、コリアンダー、クミンシード。
そして、バルバレ−エチオピア料理には欠かせない、赤い香辛料。とうがらし、にんにく、しょうが、クミン、カルダモン、バジル、コリアンダー、シナモン、クローブ、塩などを混ぜまわせたもの。とても辛い。

まず、豆の粉を作ります。表面が少し茶色になるまでいり、割ってから、皮を取り除きます。にんにく、しょうがをあらくつぶして乾かしておいたものを混ぜ、コリアンダーを加えて混ぜて、細かく粉状にします。
たまねぎをみじん切りにして、こがさないように弱火で、油を足しながら、5〜 10分、茶色になるまでいためます。
なべにくっつきそうになった時は、少量の湯を足します。
バルバレとクミンシード、塩を加え、さらに20分ほどいためます。こげそうなときは、少量の湯を足すこと。
水3000ccを加えて、煮立ったら湯でといた豆の粉を加え、30分煮ます。
塩で味を調えます。好みでバターを足してもいいでしょう。

出典は日本国際ボランティアセンター(JVC)の機関誌『トライアル・アンド・エラー』 1994年5月号

5つのアムハラ語レッスン

「ウンダメン アデルク (男性)」「ウンダメン アデルシュ (女性)」=おはよう
「デナノ (男性)」「デナネシュ (女性)」「デナナチョ (尊敬)」=お元気ですか
「デナネイン」=元気です
「アメサグナロフ」=ありがとう
「チャオ」=さよなら*イタリア語から <「デナフン (男性)」なども使われます>

いろいろ情報

「ホームページをたどっていったらエチオピアの情報に。英語ですが」と福岡のY氏から。
http://www.cs.indiana.edu/hyplan/dmulholl/ethiopia/ethiopia.html
      http://contents.justnet.or.jp/concierg/websurf.htm

「4月27日出発『エチオピアの歴史と民族を訪ねて』 13日間のツアー」の案内が
『Do Do WORLD NEWS』(道祖神発行)にのっていました。
「バンコクで接続するエチオピア航空に乗り換え、アディス・アベバへ」というルートです。

ヴァンス沙羅さんが、横浜市中区の森林公園ウラの自宅での「出会い」へのお誘い。
「<オルランド・ビングル氏のドラム教室>第2、第4日曜日。午後2時から4時。会費1回3000円。
<パーティ>を第4日曜日の午後5時から9時に。会費1000円。
電話(夜7時以降)またはファックスで問い合わせてください。045−661−4762」

「木曜日はアフリカ」ホームに戻る