第53回

2009年2月19日(木曜日)はエリトリア

目次

国のあらましと地図
自然

歴史
産業・経済

外交

独立−1993年
国名−エリトリア国 
     State of Eritrea
首都−アスマラ Asmara

面積−11.76万平方キロメートル

人口−470万人(2006年 世界銀行)
     
住民−ティグレ(ティグライ)、アファール
主な言語−ティグリニヤ語、アラビア語、英語
宗教−キリスト教
(エチオピア正教、カトリック、プロテスタント)、イスラム教

自然

紅海沿岸の平地から、2000メートルを超える山もある西部・中部の高地まで、高低のある地形。東南には、エチオピア、ジブチと広がるくダナキル砂漠があります。

歴史

1世紀、アクスム王国が作られます 紀元前、アラビア半島南部に住むセム語族の人たちが紅海を渡って移住。
1世紀、エチオピア北部のアクスムを都に置き、エリトリアから紅海をまたいでイエメンにおよぶアクスム王国が作られます。
7世紀、イスラム教徒が紅海貿易を支配するようになって、衰えていきます。

16世紀以降、オスマン帝国などイスラム諸国の進出が続きます。
1889年、イタリア植民地
1942年、イギリスの保護領に
1880年代に、イタリアがアッサブからマッサワに至る紅海沿岸に進出。
89年、内地進出をはかるイタリアに対して、エチオピアのメネリック2世は、マレブ川以北を与えます。イタリアはエリトリア全土を支配。
90年、イタリアはこの地域をエリトリア(「マーレ・エリトリウム」=ラテン語で紅海から)と名づけます。
93年、イタリアは、エリトリアを拠点として、エチオピアを軍事侵略
96年、イタリアが大敗、同年、和平協定が結ばれます。


1941年、第2次世界大戦の初期に、イギリスが占領。
42年、イギリスの保護領となります。政党や労働組合の活動が認められます。
第2次世界大戦後、国連によるエリトリア問題の討議が始まります。エチオピアはエリトリアの併合を求め、エリトリアはエチオピアからの独立を主張。
1952年、エチオピアと連邦を結成
62年、エチオピアに併合され
武装闘争を続けます
1952年、国連の決議によって、エチオピアと連邦を結成します(軍事・外交はエチオピア)。
58年、エリトリア解放戦線(ELF)が結成されます。
61年、ELFはエリトリアの独立を目指して、武装闘争を開始。

62年、エチオピア議会は、その一州としてエリトリアを併合を決議。
71年、ELFから分離した社会主義を掲げるエリトリア人民解放戦線(EPLF)が、武装闘争の主導権を握ります。

91年、EPLFはエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)と共闘。EPLFはアスマラで臨時政府樹立を宣言。EPRDFはアディスアベバに侵入し、エチオピアのメンギスツ政権は崩壊。メレス・ズナウィEPRDF議長を暫定大統領とするエチオピアの新政権は、2年以内の住民投票によるエリトリアの地位決定を約束。
93年、国連監視下で、分離・独立を住民投票を実施し、独立が決まります。
1993年、独立を宣言
98年、エチオピアと国境紛争

2002年、国境線が地図上は確定
1993年、独立を宣言。EPLF書記長イサイアス・アフェウェルキが初代大統領に就任。同年、国連加盟。
94年、EPLFは解散し、民主正義人民戦線(PFDJ)と改組されます(一党制)。
97年、制憲議会がエリトリア憲法を採択。
98年、エチオピア・エリトリア国境紛争勃発。

2000年、エチオピアとの包括的和平合意成立

2001年、国政選挙が行なわれる予定でしたが、無期限の延期。
2002年、国境委員会によりエチオピアとの国境線は地図上確定(実際の作業は進展をみないまま)。
2004年、第3回地方議会選挙



産業・経済

エチオピアの重要な港だったマッサワとアッサブの2港があり、運輸は産業別のGDP(国内総生産)の3割以上を占めます。主要産業は農業(テフ、トウモロコシ、ソルガム、ミレットなどが主要産品)・牧畜業と鉱業(金、大理石)。食糧の7割を輸入ないし援助に依存。破壊されたインフラ復興、兵士の動員解除及び退役後の社会復帰、難民・国内避難民の復帰等、多くの課題を抱えています。

主な輸出品は、鉱物資源、食糧・家畜、鉱工業品(2003年)
相手国は、スーダン、イタリア、ジブチ、ドイツ、エチオピア(2002年)

主な輸入品は、機械・輸送機器、工業品、食糧・家畜(2003年)
相手国は、アラブ首長国連邦、サウジアラビア、イタリア、ドイツ、ベルギー(2002年)

主な日本への輸出品は、自動車の部品、
輸入品は、乗用車、バス、トラック(2007年)。

主要援助国は、米国、ノルウェー、イタリア、オランダ、デンマーク(2004年)。

外交

国家の再建のため、米国をはじめ西側との関係緊密化を目指すとともに、近隣諸国との友好関係の拡大に努めています。しかし、スーダンがイスラム原理主義拡大や地域の不安定化を引き起こしているとして、1994年、外交関係を断絶。イエメンとの間では、紅海のハニッシュ島等の領有をめぐり、1995年に武力紛争が発生(98年、国際司法裁判所はイエメン領との判断を示します)。

エチオピアとは独立以来緊密な関係を維持してきましたが、1997年、エリトリアの独自通貨、ナクファ導入(エチオピア・ブルと等価として)やアッサブ港の使用料をめぐって摩擦が生じ、1998年、国境画定問題を巡って武力紛争が発生。

2000年、和平合意が成立し、国境周辺の暫定安全保障地帯に、停戦監視のための国連エチオピア・エリトリア・ミッション(UNMEE)が展開。
2002年、和平合意に基づき設置された国境委員会は国境画定に係わる裁定。2003年、帰属が不明確であったバドメがエリトリアに帰属する旨表明。
その後、両国の見解の相違から、杭打ちをもって行う国境確定作業は一部国境を除いて進展をみないまま。
2007年、国境委員会は国境確定の代替案として座標軸を提示し、一方的に解散を宣言。
2008年2月、UNMEEは暫定安全保障地帯からの一時移転を余儀なくされ、現在、両国軍が直接対峙する緊張状態にあります。




主な参考資料
『アフリカを知る事典』(平凡社)
外務省ホームページ
PEACE BOAT ホームページ

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