第39回
2007年2月15日(木曜日)はレソト
目次
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国のあらましと地図 |
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独立−1966年 国名−レソト王国 Kingdom of Lesotho 面積−3.0万平方キロメートル 人口−180万人(2005年) |
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自然
周りを南アフリカ共和国一国により、囲まれています(同様な国に、イタリアに囲まれているサンマリノとバチカン)。ほとんどが、ドラケンスバーグ山脈の中でも、高く険しい高地。タバナ・ヌトレニャナ山(3482m)をはじめ、3000m級の峰が並びます。オレンジ川の水源。川は西に流れ、南アフリカを横断して大西洋に注ぎます。 高地なので気温が低く、冬には降雪があります。 |
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歴史
18世紀、ソトがバスト王国を築きます ボーア人に国境を脅かされてイギリスの保護を求め 1868年、イギリス保護領バストランドが成立 |
18世紀に、サン(ブッシュマン)を追いやって、バントゥー系のソトが住み、バスト王国を築きます。 19世紀のはじめ、ズールーの侵攻を受けますが、王モシュシュ1世は国を守ります。 1835年以降、南アフリカのボーア人の大移動で、国境を脅かされ、イギリスの保護を求めます。 43年、王国はイギリスの保護下に入ります。 68年、正式にイギリス保護領バストランドが成立。 71年、イギリス領ケープ植民地に併合されます。ソトの伝統を無視した支配が行なわれ始めて、住民の反対運動が起こります。 84年、保護領に戻り、南アフリカ駐在のイギリス高等弁務官の管轄下に置かれます。 1903年、イギリスはソトの伝統的政治組織を存続させ、ピトソと呼ばれる民族評議会がつくられます。 55年、民族評議会は、イギリスにいっそうの自治を要求。 59年、憲法によって新しい民族評議会ができます(半数は首長層から、半数は選挙によります)。バストランド会議党(BCP)、バスとランド国民党(BNP)など政党も結成されます。 61年、民族評議会は独立を要求。 65年、選挙で国民党が勝ち、党首ジョナサンが首相に就きます。 |
1966年、王国として独立 86年、クーデターにより軍政となります 93年に民政に移行 |
1966年、モシュシュ2世を国王とする王国として独立。独立直後、政治的実権を求める国王とジョナサン首相との対立が起こります。国王は一時、軟禁されます。 70年、初の総選挙で与党BNPの敗北が明らかになると、首相は選挙を無効とし、憲法を停止します。BCPのモケレ党首らを逮捕。国王はオランダに亡命します。政治に関与しないことを条件に、ジョナサン首相は国王の帰国を許可。 73年、新憲法の起草の目的に、首相は暫定議会を召集。モケレらはこれを拒否。ジョナサン首相の独裁化に対して、レソト解放軍を組織して、武力闘争を行ないます。 75年、首相は暫定国民議会を開き、議員を任命。 76年、野党BCPも入閣させます。 80年、南アフリカへの依存を減らす目的で、南部アフリカ開発調整会議(SADCC)結成に参加(92年、南部アフリカ開発共同体−SADCに改組)。 83年、首相は方針を変えて、独裁化を図ります。 85年、選挙で、野党は候補者の指名を拒否。 同年、反アパルトヘイトの姿勢を強めたため、南アフリカに国境を封鎖されます。 1986年、レハンヤ将軍がクーデター。レハンヤ軍事政権はモシュモシュ2世を国家元首に復位させます。国民議会を解散し、政党活動を禁止。 90年、モシュシュ2世が評議会メンバーの交代を拒否したとして、レハンヤ議長は国王から全権剥奪を発表。国王はイギリスに亡命し、軍政廃止、政治的民主化を要求。議長は国王を廃位し、その長男をレツィエ3世として即位させます。 91年、軍部内でクーデター。ラマエマ大佐が政権を掌握。 92年、モシュシュ2世が帰国。 93年、民政に変わる23年ぶりの総選挙で、バストランド会議党(BCP)が全議席を獲得、モケレ党首が首相に就任。 94年、モシュシュ2世の復位を検討し始めた首相に対し、レツィエ3世はクーデターを起こし、議会を停止させます。南アフリカ、ジンバブエ、ボツワナの外交交渉で、モケレ政権が復活。 95年、モシュシュ2世が復位。 96年、モシュシュ2世が交通事故で死亡し、レツィエ3世が復位。 98年、与党BCPは、高齢を理由にモケレ党首を解任。モケレは新党、レソト民主会議(LCD)を結成。 同年、総選挙が行なわれ、LCDが圧勝します。選挙に不正があったとして、野党支持者が選挙のやり直しを要求し、警察と市民の衝突に発展。南部アフリカ開発共同体(SADC)軍の介入がし、鎮静化。 2002年、再総選挙を、国際的な選挙監視の下に実施。LCDが勝利を収めます。 2005年、初の地方自治体の選挙が実施されます。 同年、イギリス政府は在レソト高等弁務官事務所の閉鎖を決定。 |
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産業・経済
農業の生産性は低く、牧畜は盛ん。わずかですが、ダイヤモンド等の鉱物資源も産出しています。南アフリカの鉱山への出稼ぎ労働者からの送金が、大きな収入源となっています。 製造業の繊維産業が、米国のアフリカ成長機会法(AGOA)の恩恵を受け、急成長を遂げます。しかし、2005年、アジア系企業の米国への直接輸出が可能となると、レソトに進出していた台湾や中国系企業は相次いで撤退。 水資源や水力発電による電力を南アフリカに供給するプロジェクトが、1986年に開始されます。現在は、水資源が主で、今後、電力輸出が本格化する予定。 人口増加率は、-0.2%(2005年: 世界銀行)。 主な輸出品は、衣料品、食料品、靴、畜産品、 相手国は、米国、欧州連合(EU)、南部アフリカ関税同盟*諸国(SACU)(2004年)。 *レソトのほか、南アフリカ、ボツワナ、スワジランド、ナミビア。 主な輸入品は、工業製品、食料・家畜、機械製品(2004年) 相手国は、南部アフリカ関税同盟諸国(SACU)、アジア(2004年)。 日本への主な輸出品は、衣類、輸入品は、繊維機械、自動車(2005年)。 主要援助国は、アイルランド、イギリス、ドイツ、米国、ノルウェー(2004年)。 |
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文化
レソトは帽子の国。1966年の独立時に制定された最初の国旗は、青地に白のソト人の帽子が基調となり、左に緑と赤のたて線が入っていました。87年、盾、槍、棍棒のシルエットを入れた国旗に変わります。93年、民政に移行しても、国旗はそのままで議論の的でした。独立40周年の2006年に、帽子を再びあしらった国旗が採用されます。 典型的な帽子は、頂がとんがった形で、素材はイネ科の植物を束にしたものをコイル巻きしたもの。 |
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○2002年の総選挙について書かれた(前)在南アフリカ大使館二等書記官 菅原清行さんのエッセイ、「レソト王国総選挙の監視員として過ごした1週間」(『月刊 アフリカ』2002年7月号)が、外務省のホームページに転載されています。 http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/staff/genba/g_5.html |
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