第21回

2006年1月5日(木曜日)は中央アフリカ

目次

国のあらましと地図
自然・世界遺産
歴史
産業・経済
教育
中央アフリカを知る本

独立−1960年
国名−中央アフリカ共和国 Central African Republic
面積−62万平方キロメートル

人口−394万人(2004年、世界銀行)
首都−バンギ Bangui

住民−バンダ、バヤ、ウバンギ(サラ、ヤコマ、サンゴ)、
ザンデ、サラ、ビンガ
(ピグミー系) 他

主な言語−サンゴ語(公用語、国語)、フランス語(公用語)

宗教−伝統宗教、キリスト教(カトリック、プロテスタント)、イスラム教

自然・世界遺産

大部分が低い高原で、ウバンギ川とシャリ川が流れています。南西部は、熱帯雨林、北東部は半砂漠で、それ以外はサバンナが広がります。

マノヴォ-グンダ-サン・フローリス国立公園が、1988年、世界遺産に登録されました。
広大なサバンナに、クロサイ、ゾウ、チータ、ヒョウ、ワイルド・ドッグ、アフリカスイギュウ、また、 洪水になると水没する北の草原には、多くの種類の水鳥が生息しています。

歴史

移住の十字路
もともとは、低い身長からピグミーと呼ばれる狩猟採集民が居住。
アフリカの中央に位置していることから、さまざまな民族が移り住んできました。
1984年、フランスの植民地
ウバンギ・シャリ
1984年、フランスの植民地、ウバンギ・シャリとなります。
1910年、コンゴ、ガボン、チャドの3国とフランス領赤道アフリカとして編成されます。特許会社により、強制労働でゴムの採集などが行なわれます。


第2次世界大戦の初期には、自由フランスの側にたち、ビシー政権に抵抗。
58年、フランス共同体内の自治共和国になります。首相についたボガンダが理想とした「中央アフリカ合衆国」(旧フランス領赤道アフリカを主とする)から国名をとります。
1960年に独立後
たびたびクーデターにより
政権が代わります
1960年に完全独立。ダッコが初代大統領につき、一党独裁体制をたてます。
65年、いとこのボカサ参謀総長がクーデターで政権を奪います。
76年、帝制をしいて皇帝となり、77年にナポレオンを真似た戴冠式を行ないます。フランスの軍事庇護を失って、79年、クーデターで倒されます。

79年、クーデターでボカサが倒れ、ダッコが復帰し、共和制に戻ります。81年、クーデターで、失脚、コリンバ参謀総長が国家再建軍事委員会議長に就任。
86年、国民投票により新憲法を採択。コリンバ大統領選出。
91年、憲法改正により複数政党制が成文化。
93年、大統領、国民議会選挙。パタセ新大統領就任。

96年、国軍の一部兵士による、給与遅配に反対する騒擾事件や、大統領の辞任を要求する実力行動などが起こります。
97年、周辺4か国の仲介で停戦合意をしましたが、アフリカ仲介軍(6か国で構成)と旧反乱兵士の間に戦闘勃発。
98年、国連平和維持活動(PKO)(MINURCA)派遣。
2000年、撤退、国連平和構築事務所(BONUCA)設立。

2003年、ボジゼ元参謀総長によるクーデターが発生。「大統領」と宣言し、憲法を停止。「国家暫定評議会」を設立。
2004年、新憲法を国民投票で採択。

産業・経済

綿花、コーヒー、木材、ダイヤモンドが主な輸出品。
主な貿易相手国は、輸出は、ベルギー、イタリア、スペインで、輸入は、フランス、アメリカ、カメルーン。
内陸国であるため、貿易は近隣諸国経由で輸送コスト高という不利に加え、度重なる政情不安の影響で、経済の低迷が続いています。
主要援助国は、フランス、ドイツ、日本、オランダ、カナダ(2003年)。



教育

成人の識字率40%、初等教育総就学率57%、同就学率の男女間格差(男子71%、女子46%)という状況に、政府は、「国家教育開発計画」を策定し、就学率(特に女子)の向上、教育施設および機材の供給などに努めています。しかし、経済・財政状況などからそれらの進んでいません。教室数は絶対的に不足していて、バンギやその周辺では四部制授業や一つの学校校舎で複数の学校運営が行なわれているところもあります。 

授業はフランス語で行なわれ、学期はフランスと同様で、10月1日から6月30日まで。
1970年、ジャン・ベデル・ボカサ(現、バンギ)大学が開校(経済、法、自然科学、文学、技術−農業・鉱業− の各学部)。



中央アフリカを知る本

とくなが みずこ
徳永 瑞子
「シンギ ミンギ −アフリカでエイズ患者と共に生きて
サン パウロ
 2001年
著者は、看護師・助産師。1971年から83年の間に8年、ザイール(現、コンゴ民主共和国)で医療活動を行ないました。帰国後、日本で病院に勤務しましたが、アフリカのHIV(ヒト免疫不全ウィルス)感染拡大防止を目指して、91年にNGO、「アフリカ友の会」を設立。中央アフリカ共和国の保健省から活動許可を得て、93年、バンギの「ブエラブ保健センター」を拠点に活動を始めました。予防教育とエイズ(後天性免疫不全症候群)患者の支援の2つが柱になっています。

「エイズは、科学の力により死の病ではなくなった。しかし、貧しい国と豊かな国のエイズ治療の格差は広がるばかりである。『貧しいからといって死なせないで』という途上国のエイズ患者の叫びを先進諸国の人々に聞いて欲しい。

エイズ患者の『生きる』姿を皆さんに伝えたい。すでに去っていったエイズ患者はどのように生きたか、また、いまエイズ患者はどのように生きているかということである」(「はじめに」から)


32歳の農民、妊娠していると思い込んでいた24歳の女性、牧師になる勉強中の男性(36歳)、母親と一緒に発症した16歳の女性、洋裁教室の縫い子(30歳)、旧ソ連に留学経験のある農業技術者、「象牙人」(30歳)、エイズについてよく勉強し、「いつも抗HIV剤の処方箋を持ち歩きながら『お金がなくて薬は買えないの』と、しょんぼり話す」女性(35歳)・・・。さまざまな人たちの生がつづられています。

また、シスターたちに「アフリカの洗礼を受けたのね」といわれた、40度を越す高熱を発するマラリア、「これでミズコも現地人だ」と祝福されたアメーバ赤痢、避難する「当事者」となった96年の騒乱など、筆者に起こるできごとや日常、思いも描かれています。

「時々、雄大なウバンギ川が見たくなる。この川のほとりに高くそびえるホテルのカフェ・テラスで、冷えたジュースを飲みながら、眼前に広がるウバンギ川を眺める。


ウバンギ川の畔に佇むと心が安らぐのは、有明海の沿岸で育った私の、水への愛着なのだろうか。それとも、このウバンギ川を丸木舟で渡った27歳の時の自分が、今もその延長戦上にいることへの喜びのためなのだろうか」(「ウバンギ川の畔で」から)

書名の「シンギラ ミンギ」はサンゴ語で「ありがとう」。患者から向けられた言葉、そして「多くのことを学ばせてくれたエイズ患者たちへの」筆者の感謝の言葉です。


主な参考資料
『アフリカを知る事典』(平凡社)
外務省ホームページ
中央アフリカ共和国名誉総領事館のホームページ

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